プロジェクト:
鎌田七男・箸『広島のおばあちゃん』仏語版翻訳とフランスによる核実験被害者に向けての配布
財団法人東芝国際交流財団の助成金受給により実施
1. このプロジェクトの背景と目的
フランスは1966〜96年に仏領ポリネシアのモルロア、ファンガタウファ両環礁で計193回の核実験(大気圏46回、地下147回)を行ないました。実験には、フランス軍関係者、民間企業派遣員のほかに、現地採用のポリネシア人労働者5千〜1万人(正確な人数は不明)が動員され、その多くが放射線を被ばくした可能性があります。また、大気圏核実験の放射性降下物による汚染は仏領ポリネシア全体に広がっており、元労働者以外の一般住民やその子孫への影響も懸念されています。
フランス核実験による被害者の存在は、最近までほとんど表面に出ることがありませんでした。そのおもな理由は、被害者の多くが「核実験について口外すれば、フランスの国防機密漏えい罪に問われる」と恐れ、口を閉ざしてきたためでした。しかし、1990年代になって被害者を支援する市民活動に支えられて被害者の掘り起こしが進み、2001年に仏領ポリネシアで初めて被害者団体が結成されました。これは、アメリカやイギリスの核実験被害者の運動に比べて、かなり遅い出発と言えます。
被害者の権利回復運動を効果的に進めるためには、被害の実態の正確な把握が土台になります。しかし、放射線の健康影響についてポリネシア人が得られる情報は、フランス政府、とくにフランス国防省から出される「フランスの核実験はクリーンで、影響はない」とするものがほとんどで、多くのポリネシア人は不信感を払拭できないのが実情です。反面、放射線被害の実相が正確に知られていないために、自分が苦しんでいる健康問題と過去の放射線被曝と関係があるかも知れないとは思いもよらない元核実験労働者や、逆にあらゆる健康障害を核実験と結びつけ、自らや子や孫の健康への不安や、罪悪感に苛まれているポリネシア人も少なくない現実もあります。このため、放射線の健康影響に関する科学的な情報が、核実験を行なったフランス当局ではなく、この問題について利益相反のない第三者的立場にある専門家から提供されることがポリネシア住民の間で望まれてきました。
2016年7月に「フランス核実験50周年記念事業」が仏領ポリネシアで行なわれたさいに、日本から秋葉忠利前広島市長、振津かつみ医師(放射線医学)、大島秀利毎日新聞論説委員、真下俊樹國學院大学講師の4名が参加しました。現地市民団体との交流のなかで、秋葉氏より「『広島のおばあちゃん』というリーフレットがあるので、そのフランス語版を作成して仏領ポリネシア市民に配布してはどうか」との提案があり、現地市民団体からも「是非お願いしたい」との期待が表明されました。『広島のおばあちゃん』(鎌田七男・広島大学名誉教授著)は、広島で被爆した「おばあちゃん」が、学童の質問に答える形で原爆の実相を語ると同時に、投下された原爆による放射線の健康影響を、科学的根拠に基づいて、中高校生にも分かりやすく解説した本です。上記のような現在の仏領ポリネシア市民の必要にも合致していることから、帰国後、具体化に向けて動き出しました。
2016年6月28日E.フリッチ仏領ポリネシア大統領と面談:写真右からB.バリオ前DSCEN部長(故人)、振津かつみ医師、E.フリッチ仏領ポリネシア大統領、秋葉忠利前広島市長、真下俊樹國學院大学講師、R.オルダム仏核実験被害者団体「モルロア・エ・タトゥ」代表
2. プロジェクトの経緯
必要な資金については、公益財団法人東芝国際交流財団から助成を受ける可能性があることがわかり、プロジェクトの受け皿として秋葉氏が顧問を務めるNPO法人「文化の多様性を支える技術ネットワーク」(理事長:山﨑芳男早稲田大学名誉教授)に引き受けてもらえることになり、東芝国際交流財団への助成金申請も同NPOで行っていただけることになりました。
仏語版『広島のおばあちゃん』の版権等について、著者の鎌田氏に相談した結果、本プロジェクトを契機に、氏の主催する「シフトプロジェクト」が仏語版の製作を行い、完成した本を「文化の多様性を支える技術ネットワーク」が東芝財団からの助成金の許す範囲で買い取り、仏領ポリネシアへ送付することになりました。当初、2000部を購入する計画でしたが、諸経費の関係で最終的に1000部を送ることになりました。
フランス語への翻訳は、フランソワーズ・ジャン東京工業大学リベラルアーツ研究教育院外国人教員が行いました。翻訳作業はおもに日本語版を底本とし、随時英語版を参照する形で行われました。また、同仏語版がより長く読まれるよう、原著者との合意の上で一部内容をアップデートするとともに、フランス語読者の理解を助けるための各種情報を追加しました。最終的な訳文を日本語原文とチェックする作業を真下が行いました。翻訳完了は、当初2017年4月頃の予定でしたが、訳者の健康上の都合により、予定から約半年遅れの2017年9月になりました(仏語版タイトルはLa vielle dame d’Hiroshima — Éducation à la paix)。その後、2017年末に版下作成、校正、索引作成等の最終作業が終わり、翌2018年1月に印刷が完了しました。
3. 送る段階で想定外の難関が次々と
「本が完成すれば、あとは郵送するだけ」というナイーブな思い込みとは裏腹に、実際に本を送る段階になって、当初想定外の様々な難関が次々と現れてきました。ここではそれを逐一報告するスペースも、また意味もないと思われるので、最大の難関であった関税問題について以下簡単に報告し、その一端をお示しておきます。
当初、仏語版『広島のおばあちゃん』は、仏領ポリネシアの市民団体に「寄贈」するのだから、当然輸入関税は掛からないものと、頭から考えていました。ところが、郵送する直前に、念のため現地税関に問い合わせたところ、「たとえ対価を伴わない寄贈であっても、一定の価値のあるものを移譲する以上、関税はかかる。寄贈先の市民団体は「公益NPO」(NPOのなかでも特に公益性があると認定されたNPOで、とくに寄付に関して税制上の優遇策がある。日本の認定NPOに当たる)の認定を受けていないので、関税は免除されない」との返事が帰ってきました。しかも、関税率は約30%と驚くほど高く、本を買い取ったあとの助成金の残金ではとても払えない額になることが分かりました。
思わぬ壁に行き当たって、日本でできそうな方策を当たってみましたが万策尽き、途方に暮れているときに、仏領ポリネシア政府の「核実験影響追跡調査代表部(DSCEN)」のY. ヴェルノドン部長が親身になって、様々な可能性を当たって下さいました。そのなかで、彼女が前理事長をしていた自然保護NPOが「公益NPO」を取得しているので、そこに頼んで本の受け皿になってもらえそうだとの連絡が来ました。「これで解决か」と喜んだのもつかの間、ヴェルノドン部長が確認を依頼した、法律に詳しい同僚のひとりから「この公益NPOの活動分野は自然保護であり、寄贈本の内容はそれに合致しないから、関税は免除されない」との指摘を受けました。日本では認定NPOであれば、寄付・寄贈はほぼ自動的に優遇税制の対象になり、その内容まで検分されることはまずありませんが、フランス法を受け継ぐ仏領ポリネシアではその運用規定が日本よりもはるかに厳しいようで、関税問題は振り出しに戻ってしまいました。
そんなこんなを何度か繰り返した挙げ句、結局、唯一残された道は、寄贈先を仏領ポリネシア政府にするしかないと分かりました。そこで、ヴェルノドン部長がそのための手続きを調べることになりました。ところが、こうした事例は過去に先例がまったくなく、行政機構全体のなかで整合性のある形で受け入れ体制を整えるためには、リション氏やバジル氏など彼女の同僚の協力も得ながらの「前人未踏」の気の遠くなるような確認作業が必要だったといいます。最終的に、本案件は仏領ポリネシア政府の閣僚会議まで上げられ、大統領の裁定により、仏領ポリネシア政府として正式に受け入れられることに決まりました。
幾多の紆余曲折と一喜一憂を経て、仏語版『広島のおばあちゃん』1000部を乗せた貨物船サウス・アイランダー号は、2018年5月9日13時46分、ようやく神戸からタヒチのパペエテに向けて出港したのでした。
本プロジェクト実現のために大いにお世話になったY.ヴェルノドン仏領ポリネシア核実験影響追跡調査代表部(DSCEN)部長
4. 理想的な配布形態
2018年6月14日、貨物船サウス・アイランダー号は無事パペエテ港に入港。本の入ったダンボール箱25箱は現地通関業者により陸揚げされ、税関へ運ばれました。ちなみに、ヴェルノドン部長によると、その後さらに税関での非関税手続きが難航し、本が実際に彼女の職場に届いたのはそれから2週間以上後の6月29日だったそうです。
ようやく仏領ポリネシア政府に届いた仏語版『広島のおばあちゃん』
こうして、仏語版『広島のおばあちゃん』は、仏領ポリネシア政府の核実験影響追跡調査代表部(DSCEN)という仏核実験専門機関によって配布されることになりました。ヴェルノドン部長は、NPO(核関係だけでなく自然保護団体も)だけでなく、公共機関としての公平性に基づいて、離島を含めた仏領ポリネシア全土の中・高校、大学、公共機関(中央および地方議会、保健所、図書館など)、教会等々に万遍なく配布する考えとのこと。さらに、「配ったはいいけれど、誰も読まない」といったことにならないよう、この本がポリネシア市民に活用されるための方策を取っていくとしています。また、2017 年 3 月の仏政府との合意にもとづき、フランス核実験の体験を将来世代に継承するための「仏領ポリネシア核事実保管情報資料研究所」をパペエテ市内の旧仏海軍司令部の建物に設立することが決まっていますが、設立の暁には館内で本書を販売したいとしています。
折しも、2018年1月、仏領ポリネシアに赴任していたフランス人小児精神科医が、仏領ポリネシアで小児精神疾患がとくに多く、その患者の多くが元核実験労働者の子孫であるとの報告書を公表し、現地の新聞やテレビ・ラジオで大きく取り上げられました。その報告の内容自体は科学的根拠のあるものではありませんでしたが、核実験の健康影響の徹底的な調査を求める声は仏領ポリネシア全土に広がり、今年4〜5月に行われた仏領ポリネシア議会・大統領選挙では、この調査をどうするかが主要な争点のひとつとなりました(結果は前E.フリッチ大統領が再選)。
現在、仏領ポリネシア市民は、放射線の健康影響に関する正確な情報を渇望している状態であり、その意味でこの時期に本書が寄贈されることは極めて時宜に適ったことと言えます。DSCENだけでなく、仏領ポリネシア政府も、現在の仏領ポリネシアでの混乱した議論を整理し、フランス核実験の健康影響についてポリネシア市民が冷静に考えるための礎石として本書を大いに活用したいとしています(後継の「E.フリッチ大統領からのお礼状」を参照)。今年の7月2日のフランス核実験記念日(1966年のこの日、最初の仏領ポリネシアでのフランス核実験が行われた)には、本書をNPOに寄贈するイベントのほか、今回の寄贈についての記者会見も開催されました。
本プロジェクトの当初の計画では、本書を仏領ポリネシアの仏核実験被害者団体宛に送り、人づてに配布してもらうことを考えていましたが、おもに上記の関税問題で不可能になりました。しかし、その壁を乗り越える方策をあれこれ試行錯誤した結果、最終的には上記のような、当初は期待すべくもなかったような理想的な配布形態が実現したと言えます。
仏領ポリネシア大統領
No. 04154/PR
2018年7月2日 パペエテ
NPO「文化の多様性を支える技術ネットワーク」
秋葉 忠利 様
件名:NPO「文化の多様性を支える技術ネットワーク」より仏領ポリネシアへの仏語版リーフレット『広島のおばあちゃん —平和教育』1000部の寄贈
参照書類:2018年4月18日付寄贈申出の書簡
添付書類:2018年4月18日付書簡 核問題に関する私の見解
拝啓 秋葉様
仏語版『広島のおばあちゃん』1000部が、ようやく当地の港に到着し、核実験影響追跡調査ポリネシア代表部(DSCEN)の事務所に配達されました。
この部局は、教育総局(DGEE)との連携の下に、本書の配布を担当しており、まず仏領ポリネシアの中・高校、そして貴殿のご希望と目的(これには私も全面的に賛同いたします)に沿って、平和教育のために活用することにしています。
すでに、私から仏領ポリネシアの各機関と、核問題をめぐる真実と公正に取り組んできた市民団体に各1部ずつ配布したところです。今後、それぞれの配布能力に応じた追加部数をDSCENから直接入手できることになっています。
少なくとも20部以上は、設立が予定されている太平洋フランス核実験記念館用に保管することにしています。ちなみに、本記念館設立計画は順調に進んでおり、フランス本国、仏領ポリネシア、市民団体との協力の下で、この記念館の内容をどのようなものにし、共有していくかを協議しているところです。フランス本国は、そのための場所として、元核実験労働者団体モルロア・エ・タトゥの記念碑にほど近い、パペエテ臨海地域の旧フランス海軍官舎をすべて譲渡する意向を表明しています。
これと並行して、仏領ポリネシア政府は、学校教育の科目や教材に核の問題を取り入れる政策に引き続き取り組んでいく所存であり、その意味でも『広島のおばあちゃん』は参照文献になります。
先の選挙期間中の2018年4月18日、私は核問題に関する私の立場を公にしましたが、そのさいに『広島のおばあちゃん』のもつ証言の力、科学的・医学的情報の質、そして何よりも真実と正義、平和を求める価値観から多くを学びました。
本書をフランス語に翻訳し、1000部を仏領ポリネシアに寄贈してくださったことに、心からお礼申し上げます。また、本書の送付に際して煩雑な行政的手続きにより多大のご苦労をおかけしたことを大変申し訳なく思うと同時に、忍耐強くご対応いただいたことに改めてお礼申し上げる次第です。
敬具
仏領ポリネシア大統領
エドゥアール・フリッチ